無学年教材の完成

広島国語屋本舗現古館 館長の小林です。

しばらくブログをお休みしていました。

というのも、現代文の教材を有志の先生方と作成していたからです。

基本的に授業で使うテキストは自作する必要はないと考えているのですが、今回は私が求めるコンセプトと合致したため作成に踏み切りました。

そのコンセプトとは、「学年を問わず使える」というものです。

解き方は変わらない

NO CHANCEに空目したのは秘密

私は、少なくとも「問題の解き方」については、国語は学年を問わない科目だと考えています。

現古館の授業では、「解き方」の説明をする際に、学年によって用いる表現は変えても、伝える内容は一切変えてません。

国語の解法なんていうものは、小中学生のうちにさっさと終わらせてしまえばいい、というスタンスなのです。

私も太古の昔に高校生というものをやっていましたが、毎日忙しいですよね。

英語や数学の授業進度は速いし、内容もどんどん難しくなっていく。

理解して覚えなくてはいけない知識は膨大ですし、課題に、学校行事に、部活動に…と忙殺されます。

国語塾の人間がこんなことを言うとおかしいかもしれませんが、ほとんどの学生にとって、国語に割ける時間は無いに等しいのです。

そんななか、国語を武器にしようと頑張っている現古館の高校生たちには頭が下がります。

今度爪の垢を煎じて飲ませてもらうことにしますね。

世界の解像度が上がる

さて、解き方は変わらないと言いました。

では、何が変わるのかというと、単純に書かれている内容や用いられる表現が変わるわけですが、私はそれらをひっくるめて「世界の解像度が上がる」と表現しています。

経験を重ねて成長していくにつれ、私たちの身の回りの世界はどんどん複雑化していきます。

「複雑化」とは言いますが、おおざっぱに見ていたものが、細かく見えるようになるというだけの話ですが。


大学生の頃、私は教職課程に身を置いていました。(国語の、ではないところはご愛嬌です。)

一回生の頃の必修科目に「差別問題論」という講義があったのですが、その中で「歩道橋をイメージして絵で描いてみろ」という指示がありました。

頭の出来が芳しくなかった当時の私は、その指示の意図を推し量ることもなく、無邪気に下のような絵を描きました。

目を覆いたくなるような惨状

一通り受講生が絵を描き終えたあと「エレベーター描いた人いる?」と教授が訊ねました。

そこで私は、「歩行が困難な人」を思考の埒外に置いていたことにようやく気付きました。

芥川賞受賞作の「ハンチバック」の中で、「読書は5つの健常性を満たす必要がある文化だ」という一節を読んだときにも似たような衝撃を感じましたね。

「知る」ことは、素晴らしい側面ばかりが強調されがちですが、「知る」ことでより「分からなくなる」という側面があることもまた、「知って」おかなくてはいけません。

ここで重要なのは、そうした「複雑化した世界」をこそ、国語、もとい現代文という科目は扱っているということです。

テーマをつかむ

ゼメ、ではなくテーマです。

文章を読むための準備段階として、一語に向き合い、一文に向き合う。

これは普段の現古館の授業で行っていることです。

徹底した口頭試問で、内容の理解度をいちいち確認するわけですね。

しかし、それをある一定のレベルでクリアできるようになったら、やはり「文章」に向き合うことになります。

特に国語の文章問題のほとんどは、教育的意図によるトリミングがなされています。

理解してもらう「テーマ」によって、一定の箇所を切り取って出題しているわけです。

質の良い過去問には、問題を最初から最後まで解き終えたときにそのテーマが理解できる構成になっており、受験校からの「最初の授業」になっているものがあります。

そうした過去問を選定し、世界の解像度を上げながら読解力を身に付けられる教材を作成していたというのが、ブログを長期間サボっていた言い訳になります。

ただ、「テーマをつかむ」ということと同じくらい重視したポイントがあります。

それは、「用いられている表現ができる限り平易であること」です。

手の届く文章、背伸びする文章

読書体験としては、自分の現在の語彙力を越えた文章、背伸びする文章にかぶれてみるのも良い経験だと思うのです。

中2で「君主論」を読んでいた生徒もいましたし、高1で「資本論」を読んでいた生徒もいました。

その理解度が確かなもののはずはないのですが、それはそれで自分の世界を強制的に広げるキッカケになりますからね。

ただ、国語の学習として扱うのであれば、扱われている世界観が生徒が今見えている世界よりも広い分、理解できる表現で書かれている文章、手の届く文章であるべきです。

「うしろめたい」という感情が、「誰にとがめられたわけでもないのに、自分の内なる声、価値観によって感じる不安な気持ち」だと理解できていない生徒に、「疚しい(やましい)」と漢字で読ませても意味はないのです。

学年を問わず読解力を向上させ、世界の解像度を上げていくためには、まずもって「平易な表現で書かれていること」。

ここも外せないポイントですね。

一部の高校生は既にこちらの教材での演習をスタートしています。

今後、現古館の指導を支える柱の1つになる教材です。

ご期待くださいね。

最高の練習曲になるはずです。