ツナ具①

広島国語屋本舗現古館 館長の小林です。
コンビニのおにぎりで最も人気な具が「ツナ」です。
はごろもフーズが販売するツナのみを「シーチキン」と言います。
こんな話がしたいわけではありません。
「つなぐ」視点についてのお話です。
「うしろめたい」がわからない
先日、他県の先生方とお話していたときのことです。
「”うしろめたい”っていう感覚が育っていない生徒は当たり前にいますよね」という話がありました。
これ、全く同じことを生徒にきいたことがあったんです。
「”うしろめたい”ってどういう気持ち?」
「”うしろめたい”と”申し訳ない”は何がちがうの?」
その生徒は答えることができませんでしたが、おそらく大人でも答えられない人は多いんじゃないでしょうか。
誰からも見とがめられる心配はないけれども覚えずにはいられない良心の呵責。
言葉で理解できても、それを経験と結び付けて実感とともに体得している生徒はどれだけいるでしょうか。
別の例を挙げます。
ヘルマン・ヘッセの名作「少年の日の思い出」。
中学1年生の教科書に載ることが多い作品です。
模範少年のエーミールの蝶を盗み、挙句台無しにしてしまった「僕」は、エーミールにすべてを告白し、謝罪します。
しかし、エーミールは怒るでもなく、嘆くでもなく、ただ軽蔑した視線を「僕」に向けます。
それを受け、「僕」は思わずエーミールにつかみかかりそうになるわけです。
単に怒られる、敵意を向けられることよりも、軽蔑をされることのきつさ。
相手にされないことの痛み。
これが理解できなければ、この作品における「僕」の心情は理解できないでしょう。
実感とつなぐ
感情を育てましょう。
そんな雑なことを言うつもりはないのです。
実際に経験すればそうした感情を獲得することもできるでしょうが、経験したうえでそういった気持ちを抱かないことだってあります。
こういうときにはこういう感情を抱くはず、という「常識」は、どこまでいっても多数派の感覚の集積でしかありませんから、ずれが生じても仕方がありません。
かといって、「小学生の女の子が口紅にあこがれるのは”大人の女性の象徴”だからである」といったことを、一問一答にして暗記していくのは現実的ではありません。
こればかりは、多くの作品に触れ、疑似体験の中から「常識」なるものを形づくっていくほかないわけです。(これを「暗記」と言い換えることはできるでしょう)
ここで大切なのは、「そういう段階にいる生徒が存在する」という事実であり、「それを見極めたうえで指導できる指導者は少ない」という事実です。
選択肢問題の誤答の作られ方や記述問題を解くうえでの型づくりなど、そういったテクニックの部分は仕上げに使うものなのです。
生徒の実感と文章に書かれた内容とをつなぐという視点。
国語指導の入り口はここにあります。
続きます。