高校古文:掛詞の確認問題②
広島国語屋本舗 現古館・館長の小林です。
前回に引き続き、実際の入試問題を用いて掛詞の確認をしていきましょう。
確認問題
1、「あき」は掛詞になっているが、①②を補う漢字一字をそれぞれ記せ。(立教大学)
人のあきに 庭さへ荒れて 道もなく 蓬茂れる 宿とやは見ぬ
「① 」と「② き」を掛けている。
2、この歌には掛詞になっている箇所がある。何と何の掛詞か、漢字を用いて記せ。(立教大学)
つれづれの ながめにまさる 涙河 袖のみひちて 逢ふよしもなし
3、「きく」は掛詞になっているが、何と何を掛けているか答えなさい。(首都大学東京)
九重の ほかにうつろふ 身にしあれば 都はよそに きくの白露
と札に書きて、菊に付けて出でぬるを見つけにけるにや、人を走らかして、(略)
4、年をとって盛りを過ぎることを、掛詞の技法によって表現している歌を選べ。(明治大学)
①うたた寝に 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき
②思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを
③いとせめて 恋しき時は うばたまの 夜の衣を 返してぞ着る
④色見えで 移ろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける
⑤今はとて 我が身時雨に ふりぬれば 言の葉さへに 移ろひにけり
⑥秋の夜も 名のみなりけり 逢ふといへば ことぞともなく 明けぬるものを
5、本文中のA、Bは、「借」と他の語が掛詞になっている。「借」に対して掛けられている語の意味が分かるように、それぞれ最も適当な漢字一字を記せ。(早稲田大学)
かくいへる我も、からぬにてはなし。
かす人だにあらば、誰とてもA(かり)のうき世に、金銀、道具はいふに及ばず、かり親、かり養子も勝手次第にて、女房ばかりはかり引きのならぬ世の掟こそありがたきためしなれ。
B(かる)人の 手によごれけり 金銀華
*金銀華:スイカズラ(忍冬)の異名。初夏に白い花をつけるが、だんだん黄色になる。
解答・解説
1、①秋 ②飽
「人のあき」とあるので、「飽き」の採用は容易だと思います。
その後に、「庭が荒れて道がなくなり、蓬が茂っている宿」と続いていくので、「庭が荒れる=落ち葉」から「秋」という〈自然〉を連想したいところです。
今回のように、私大の入試では、「~が掛詞になっているが」と条件付けをしてくれるパターンが多いので、安心してそこにのっかって解釈しきましょう。
人に飽きられて、この秋は訪れる人もなく、庭までも荒れてしまって、通う道も見えないくらい雑草が茂っている家だとお分かりになるはずでしょう。
少し意訳しています。
「宿とやは見ぬ」の「やは」は反語で訳出します。
「やは・かは・めや」はほぼ反語、と覚えておきましょう。
一応理屈を説明します。係助詞「や・か」は、「疑問・反語」のどちらかで訳出しますよね。
疑問と反語、どちらが意味が強いでしょうか。
主張を含んでいる反語の方が強いですよね。
「は」は強意の助動詞ですから、疑問・反語、どちらの意味もある「や・か」の意味を強めている。
つまり、反語で訳す、という理屈なのです。
「めや」については、「め」が意志の助動詞「む」の連体形です。
意志、つまり、主張が含まれるわけですね。
それが「や」と組み合わさるなら、そりゃ反語になるでしょう、ということです。
ちなみに、係り結びが起こっているので、「見ぬ」の「ぬ」は連体形。
つまり、打消の助動詞「ず」の連体形であり、完了「ぬ」終止形として訳出してはいけません。
2、「ながめ」が「長雨」と「眺め」の掛詞
まずは、頭から直訳気味に訳していきます。
「退屈なもの思いのためにまさっている涙河」だと意味不明なので、掛詞の存在を疑います。
「退屈なもの思い」でまさるのが「涙」はいいのですが、「河」が出てきた意味が分かりませんよね。
ですから、「長雨」で「河」を増水させましょう。
退屈なもの思いのために、長雨のように増える私の涙の川は、袖ばかりが濡れて、あなたに逢う方法もありません。
3、「菊」と「聞く」
「よそにきく」は「聞く」で意味が通りますが、「よそにきくの白露」と訳してしまうと、脳がぐにゃっとなります。
暗記していれば「菊」はすぐ出るでしょうが、覚えていない場合は、地の文にある「菊に付けて」を根拠にしましょう。
ちなみに、「九重」は宮中を示す重要語なので、暗記しておいてくださいね。
宮中の外をさ迷い歩く身ですから、宮中のことは遥かに聞くばかりですが、こうして菊に白露が置いたのを見ますと宮中がなつかしく思い出されます。
と札に書いて、菊に付けて出てきたのを見つけたのだろうか、使いの人を走らせて、
4、5
試験時間は有限なので、まずは「年をとって盛りが過ぎる」というヒントからあたりをつけていきましょう。
頻出の掛詞の有無をさっと確認するのが先決ですね。
すると、ひらがな表記の「ふり」が見つかりますから、そこで初めて、本当にその和歌で良いのかを検討すればよいのです。
「我が身」と「時雨」が「古る/降る」となります。
実際の入試において、選択肢の和歌を全訳をしている時間は無いはずです。
「時雨」ってなんですか?
「時雨」とは、俄雨、驟雨のことです。
十月ごろ、秋から冬にかけての時期に、さっと降って、さっと止みます。
女心と秋の空。
狂言「墨塗」によれば「男心と~」だそうですが、とかくこの2つは移ろいやすいもののようです。
天気が急に崩れ、時雨が降ってくる。
雨宿りをしなきゃいけない。
雨宿り先で…運命の出会いが待っている。
こんな話が古文にはたくさんあります。
時雨とは、出会いの契機なのです。
そのまんま「しぐれ」というタイトルの作品は、2015年のセンター試験追試で出題がありました。
通り雨でボーイミーツガールということですね?
ボーイミーツボーイでもガールミーツガールでもいいですが、古文の世界ではそういうことですね。
ちなみに「五月雨」は、書いて字のごとく五月ごろに降る長雨です。
五月雨も 降り残してや 光堂
全てを腐らせる長雨である五月雨も、光堂のあまりの輝きに、つい雨を降り残してしまった。
そのおかげで遥か時代を超えて、当時の姿を見ることができる。
松尾芭蕉が詠んだ有名な句ですね。

①うたた寝をして恋しい人を(夢に)見たときから、夢というものを頼みにしはじめるようになった。
②(あの人のことを)思いながら寝たので、あの人が夢に現れたのだろうか。もしそれが夢だと知っていたならば、目を覚まさなかっただろうに。
③たいへんつらく(あの人が)恋しいときは、夜の着物を裏返しにして着るのです。
④表に気配が見えないので、色あせて変わっていくものは、人の心という花であるよ。
⑤今はもうこれまでと時雨が降るように、私自身が年をとってしまったので、(あの人は心に加えて)言葉までも木の葉のように変わってしまったものよ。
⑥(長いとされる)秋の夜も評判だけのものだなぁ。(恋しい人に)逢うというと、これということもなく明けてしまったことだよ。
5、A:仮 B:刈
掛詞だという前提がありますから、空所前後の確認で処理できる問題です。
「かりのうき世」という括りで見れば、「仮のうき世」は思いつくでしょうし、金銀華という植物を「かる人の手によごれ」が付くなら「刈る」しかないですよね。
仏教における現世での生とは苦しみであり、悟りを開いて輪廻を抜け出し、極楽浄土に至るための仮の宿である、という古文常識は持っておきたいところです。
このように言っている私も、借りないわけではない。
貸してくれる人さえいるならば、誰でも借りることができる仮の浮世で、金銀、道具は言うまでもなく、借り親、借り養子も思いのままであるが、ただ女房だけは貸し借りの出来ない世の決まりはありがたい習わしである。
初夏に花をつけるスイカズラが刈る人の手に汚れてしまったように、金銀は借りる人の使い方によって汚れるものだなぁ。