パターン演習の弊害

広島国語屋本舗 現古館・館長の小林です。
よく勘違いされている方がいるので申し上げておきたいのですが、パターン演習が導く高得点は、必ずしも学力の高さを示しているわけではありません。
同じ単語を何度も書いて暗記する。
似たような問題を何度も解いて暗記する。
暗記はもちろん大切ですが、それは学力を上げるための手段であって、目的ではありません。
パターン演習で高得点が「取れてしまった」としても、それがその子の学力の高さを示しているわけではない、ということはご理解いただきたいと思います。
それは、その子が努力できる子であるということを示してるだけなのですね。
努力を示している「だけ」
努力を示している「だけ」と、あえて嫌な書き方をしました。
もちろん、自分の学力を上げるために努力ができるということは、学習者として持っておきたい美徳の1つです。
けれども、その努力が、むしろ自分を苦しめるものになりうるという危険性については知っておいていただきたいと思います。
たとえば、自分の学力を上げるため、必死でパターン演習をしたとしましょう。
単語を覚え、公式を覚え、問題のパターンを覚えて、努力に努力を重ね、その結果、高得点が取れた。
しかし、入試問題は全く解けなかった。
こんな残酷なことがあっていいわけがありません。
なまじ、努力をしている分、高得点を取れていた分、そのショックは計り知れないものになるはずです。
自分は努力をした。
結果も出ていた。
なのに、入試には対応できなかった。
こんな経験をさせたくないのです。
定期テストの問題=入試問題ではない
では、なぜそんな悲劇が生み出されるのでしょう。
その理由の1つに、定期テストと入試との区別がついていないことが挙げられます。
【定期テスト】 | 【入試】 | |
【受験者の学力】 | 広い | ほぼ同レベル |
【目的】 | 授業の理解度を問い、評価する | その学校での学習に耐えられる入学者を選別する |
上の表に簡単にまとめていますが、定期テストと入試とでは、まず受験者の学力レベルが違います。
テストは「平均点」を想定して作題しなくてはなりませんから、受験者の学力層が広い学校の定期テストでは、基礎的な内容を多く盛り込む必要があります。
学校の授業の理解度を問い、それに基づいて生徒を評価するという目的がある以上、学力が高い層しか解けないような、思考力・判断力・表現力を求めるような問題を多く出すことはできませんし、してはいけません。
それに対して、入試では受験者の学力層がほぼ一定なので、その学力層に合わせた作題が可能です。
入試の目的は入学者の選別ですから、難関校の入試では、その難関校での学習に耐えられる入学者を選別するため、思考力・判断力・表現力を求める作題をすることができますし、しなくてはいけません。
*例外的に、広島県公立高校入試は「公立高校」入試であるにもかかわらず、思考力・判断力・表現力を求める、きわめて難度の高いものになっています。
ここまで言うとお判りでしょうか。
パターン演習で、ある程度対応できる、できてしまうのは定期テストレベルまで。
パターン演習で、思考力・判断力・表現力を問う難関校の入試に対応できないのは、当然のことなのですね。
こんなお悩みありませんか?
「計算問題はスラスラできるんですけど、文章題になるとできなくて…」
「漢字や単語は覚えられるんですけど、記述問題になるとできなくて…」
「他の科目はできるんですけど、国語だけはできなくて…」
「学校のテストでは点数が取れるんですけど、模試では点数がとれなくて…」
今まで、上のようなご相談をたくさんいただいてきました。
どれも〈〇〇はできるけど、国語ができない〉という形のお悩みですよね。
現古館のような国語塾に集まるご相談は、どれもこのようなものなのではないでしょうか。
これらのお悩みの原因は、実は全て同根です。
文が読めていないだけなのです。
言葉を変えると、パターン演習で〈〇〇はできるけど〉と思い込んでしまっているだけなのです。
伸び悩んでいるとき、不安なとき。
「できる」と思えるものにすがってしまう気持ちは分かります。
自分に自信を与えてくれるような「できる」と思えるものがあることの大切さも分かります。
しかし、それが成長を止める枷になってしまっているのなら別です。
厳しい言い方になりますが、悩める保護者の方々、お子さんたちのために、あえて申し上げます。
「〇〇はできる」という思い込みから降りて、学力を上げるための土台を築きましょう。
一見すると迂遠な道のりのようですが、急がば回れ、本当に自分のためになることをすべきです。
現古館は、目先の得点だけを追う塾ではない、とここに宣言しておきます。
それをご理解いただける方とのご縁をお待ちしています。