ドーピングの無意味さ
広島国語屋本舗現古館 館長の小林です。
「テスト」と名の付くものを前にすると、とたんにドーピングを求め始める子は一定数いるものです。
今回は、そうした付け焼刃の〈直前対策〉の無意味さについてお伝えしようと思います。
パータン演習の限界
そもそも、私の言う付け焼刃の〈直前対策〉とは、
1,精読を伴わない多読、演習
2,過去問利用の自己目的化
の2つを指しています。
まず、やたらと演習量を求めるという勉強は止めましょう。
多読や演習は、テーマに関する知識を蓄積し、読みの型、解きの型を体得するための手段です。
読むことがそもそもおぼつかない状態で、読むための土台が欠けている状態でそれをするということは、赤ちゃんにメジャーリーガーの剛速球を打てと言っているようなもので、どだい無理な話です。
はっきりと「時間の無駄」ということができます。
同様に、過去問を利用した演習も、それが点数をとるためだけに行われるならば、マイナスの方が大きいです。
過去問をやれば点数がとれることなんて、この業界にいれば誰だって理解しています。
けれども、目先の点数を追った挙句、根拠のない自信だけを肥大化させていくのは、長期的に見ると危険すぎます。
過去問演習をした、同じ問題が出た、答えを覚えていたから解けた。
それで…なんですか?
パターン演習は目先の得点をとれることもありますが、パターンが変われば、問われ方が変わればとたんに対応できなくなります。
そんな中身の無い学習に慣れ、無意味な習慣を付けていると、必ずどこかで頭打ちになります。
少なくとも、大学入試はそんな低レベルな学習で太刀打ちできるものではありません。(一部を除いて)
現古館はやりません
現古館は、国語の成績を伸ばすための塾です。
しかし、それは目先の数字「だけ」を追うことを意味しません。
やった限りには結果を求める、それは当たり前です。
ただ、一文を読めない状態で段落の意味はつかめませんし、段落の意味がつかめない状態で文章は読めません。
問題文が読めない状態で答えが不思議と出せるということもありません。
まずは、そこをクリアしない限りには、目先の点数など追えるはずがないのです。
ですから、はっきりと申し上げておきます。
現古館では、精読を伴わない多読・演習は致しません。
学校のテスト対策としての過去問利用も致しません。
不遜な言い方に見えてしまうかもしれませんが、私が「やらない」と決めたことは「やらない」塾なのです。
その代わりと言ってはなんですが、私が必要だと判断したことは、必要なだけ「やる」塾でもあります。