制限字数撤廃のすゝめ
広島国語屋本舗 現古館・館長の小林です。
国民的アイドル福沢諭吉先生の著書をもじったタイトルをつけました。
ご覧の通り、記述問題の制限字数を撤廃しようではありませんか!というおすすめです。

本文そのままの表現
これは学年を問わずに見受けられる傾向なのですが、記述解答が〈本文そのままの表現のつぎはぎ〉になっていないでしょうか?
ほとんどの方は、「国語の解答は本文にある!」という真理を誤解したまま妄信しているのです。
国語の解答は本文の〈内容〉にあるだけで、本文の〈表現〉そのままが解答になるわけではありません。
こうした誤解を、制限字数付きの記述問題は加速させると思うのです。
たとえば、「20字以内で書きなさい」という指示があったら、傍線近くの「20字っぽい」表現を探し始める子がほとんどです。
そして、その作業で処理できてしまう問題が、小中学生用の問題集のほとんどを占めています。
これは、〈まずは本文の表現をパクるところから慣れていきましょう〉という教育上の配慮から、〈自分の言葉で説明する必要がある問題はほとんどの子ができませんよね〉という妥協からそうなっているのです。
けれども、そうした本文パクリゲームに慣れて得点を取れて「しまった」子たちは、広島県公立高校入試で、大学入試で求められる能力の高度さに泡を吹いてしまいます。
この懸隔は絶望的なまでに深く、「高校生になったら国語ができなくなった」という子を量産します。
精確には、「もともとできていなかった」のですが。
プール際でぱちゃぱちゃ遊んでいた子どもを、太平洋のど真ん中に叩き落すようなものです。
本来は、高度な営みです
先に挙げたような「傍線近くを探したらなんか答えになりそうなところがあった!」式の問題は別ですが、そもそも〈制限字数内で答える〉という行為は高度な営みです。
問われた内容に答える上で、必要十分になるように、内容を取捨選択し、伝わる表現になるように心がけながら、なおかつ制限字数におさまるようにまとめる。
そう簡単なことではありません。
極めて深い問いの分析、本文理解、持っている表現の多様さが問われます。
例えば、「時間は一度過ぎたら二度と戻らない」と、本文の表現をそのまま書くと制限字数を超えるというシチュエーションがあったとしましょう。
そのとき、「時間の不可逆性」と抽象化できるでしょうか。
例えば、「人間が生み出したものに人間自身が振り回される状況」と、本文の表現をそのまま書くと制限字数を超えてしまうというシチュエーションがあったとしましょう。
そのとき、「人間疎外」と抽象化できるでしょうか。
仮に制限字数がない場合、実際には解答欄の大きさでおよその字数が指定されているにせよ、ある程度本文の表現をそのまま持ってくることも可能かもしれません。
しかし、制限字数があると…?
本来、〈言葉の抽象↔具体操作が自在にできるか〉を問うのが、制限字数を課す目的の一つです。
本文の表現をそのままもってくればいい、わけがないんですね。
まずは、制限字数無しでやってみませんか?
だからこそ、制限字数を一度考えずに解いてみませんか?
求められた字数に達していなくても、求められた字数を超えてしまっても、問題ない。
制限字数に達していない解答の中に、いくつ必要な要素が入っているかを見ればよいのです。
同様に、制限字数を超えてしまっている解答の中に、いくつ不必要な要素が入っているかを見ればよいのです。
自分の現状を知り、目標を立て、その達成のために課題をクリアしていく、それが学びじゃないですか。
「制限字数撤廃のすゝめ」と書きましたが、何も制限字数付きの問題を撤廃しろと言っているのではありません。
まずは制限字数を考えずに自分がどこまでたどり着けているのかを考えましょう、と申し上げているわけです。
現古館の授業では、生徒の到達点によって、指示が違います。
それはどの問題集をやるか、どれくらいの問題をやるか程度の話ではなく、問題の解き方、文章の読み方まで段階ごとに指示を変えているということです。
科目のプロとは、そういうものだと思います。