単科塾の責任

広島国語本舗 現古館・館長の小林です。

こうして国語塾を主催していますと、有難いことに、科目指導の手腕をお褒めいただくことは多いです。

けれども、科目指導の力量があることは、科目のプロとしては「大前提」の話でして、私が果たさねばならないと考えている責任は、別のところにあります。

実力を上げるのは当たり前

国語の指導を始めて、今年で10年目を迎えます。

この10年間、様々な勉強会に参加させていただき、科目指導にまつわる書籍も、常に追い続けてきました。

貪欲に、情報をとり続けてきました。

ですから、私の言うことさえ守っていただければ、実力が上がるのは当たり前なのです。

もちろん、頑張って私の要求に応えてくれた生徒の顔つきが変わっていく様子を見ていると、感動も一入です。

しかし、どこまで行っても、やっぱり「当たり前」のことなんですね。

そう言えるだけの経験を私は積んできました。

100点満点のテストで6点をとって来た生徒も、偏差値70を優に超えている生徒も、本当にいろんな生徒と出会い、経験を積ませてもらってきました。

ブレイクスルーを迎えるタイミングは一人ひとり違いますが、必ずそれは訪れました。

もう一度言います。

単科塾が、実力を上げるのは「当たり前」です。

目先の得点も、後々の得点も

私は、相手が小学生であっても、高校3年生に伝える内容と同じ内容をしっかり伝えます。

変えるのは、「分量」と「表現」だけです。

私には、長ったらしくて堅っくるしい文章を書いてしまうという悪癖があるのですが、文章の性質とは裏腹に、ユーモアにあふれたナイスガイ(死語)ですから、表現の調整はお手の物なのですね。

…少し信頼を失った気もしますが、話を続けます。

なぜ、上に書いたように、高校三年に伝える内容と同じ内容を伝えるかというと、国語の文章の「読み方」も「解き方」も、その本質は小学校から大学受験まで一貫しているからです。

努力を続けるためには、成功体験は大切ですから、目先の得点はもちろん追います。

けれども、ほとんどの生徒たちの国語学習は、大学受験のステージまでは少なくとも続くわけです。

となると、目先の得点だけをとるような「ドーピング的指導」は、生徒たちの自己認識を倒錯させるだけの対症療法に堕してしまいます。

試験の問題は、問うことの本質は変えることなく、難易度の調整が可能です。

難易度が易しく設定されている場合、本質を理解していなくても、「ドーピング的指導」で点数が取れてしまうのですが、それでは大学入試には到底太刀打ちできません。

「小学校のテストでは点数が取れていたんですが…」

「中学校までは国語が得意なはずだったのに…」

こんな誤解を生んでしまうの指導は、きつい言い方をあえてすれば、害悪でしかないと思います。

私が切磋琢磨させていただいている指導者の方々は、皆さん真摯な指導をされていますが、一部で「ドーピング的指導」がはびこっていることもまた事実です。

国語指導の現場は、まさに玉石混淆という実情があります。

得点のその先に

先ほど、「後々の得点」の例に、大学受験を挙げました。

たしかに、「得点」という意味では、大学受験が最後のステージかもしれません。

けれども、長い時間をかけて学習してきた内容が、大学入試を最後の花舞台に結実を迎える…と見てしまうのは些か寂しいものです。

日本語学者の金水敏先生は、文学部で学ぶ意味を以下のように語っています。

しかし、文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったときではないか、と私は考えます。今のこのおめでたい席ではふさわしくない話題かもしれませんが、人生には様々な苦難が必ずやってきます。恋人にふられたとき、仕事に行き詰まったとき、親と意見が合わなかったとき、配偶者と不和になったとき、自分の子供が言うことを聞かなかったとき、親しい人々と死別したとき、長く単調な老後を迎えたとき、自らの死に直面したとき、等々です。その時、文学部で学んだ事柄が、その問題に考える手がかりをきっと与えてくれます。しかも簡単な答えは与えてくれません。ただ、これらの問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう。人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです。

2017年 大阪大学文学部・文学研究科卒業セレモニー式辞 より

上の内容を、国語の学習に置き換えてみましょう。

書かれている内容を正しく捉える力は、問題の対象化・客観視をきっと助けてくれることでしょう。

書かれている内容を正しく捉え、それについて自分の手持ちの言葉で考え、それを伝わるように表現すること。

その力が体得され、生徒一人ひとりがより善い人生を送るための武器の一つになってくれるなら、こんなに嬉しいことはありません。

そして、少なくとも私のような国語単科塾の講師の責任は、そうなりうるように、先を見据えた指導をしていくことだと考えています。

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