ずさんな国語指導の呪縛

広島国語屋本舗 現古館・館長の小林です。

現古館のような単科塾を主催していると、本当に幅広い学力層の生徒を指導することになります。

旧七帝大をはじめとした最難関大学の受験指導に関わることもあれば、国語が苦手すぎて打ちひしがれた状態の生徒のサポートをすることもあります。

特に後者の生徒を指導しているときに強く感じるのですが、いい加減な国語指導の呪縛は根深いものですね。

ありもしない桃源郷、無何有の里、ユートピア、シャングリラ、エルドラド。

どんな言い方をしてもいいですが、そんな理想郷を思い描いて苦しんでいる子たちを見ると、非常に辛い気持ちになります。

ですから、私はその幻想を振り払うところから指導を始めるわけですが、今日はそのお話をしようと思います。

国語は本文に答えがある

ずさんな国語指導の特徴の1つに、「言葉足らず」があります。

言葉足らずが許されるのは高倉健さんだけで、国語指導においては害悪だと言って差し支えありません。

私が今回やり玉に挙げるのは、見出しにある通り、「国語は本文に答えがある」という指導です。

生徒たちがこの言葉をどう解釈するかというと、「国語の問題の答えは、本文の表現から抜き出せばよい」となってしまうんですね。

しかし、この認識では不十分なのです。

「国語の問題の答えは、本文の表現から抜き出せばよい」が真であれば、誰も国語で苦労することはないでしょう。

本文から答え表現を検索し、抽出するだけの問題で、点数に差などつこうはずがありませんから。

また、「国語の答えは人それぞれ違う」などといったトンでもない言説も飛び出したりはしないでしょう。

表現の差も何も、抜き出しゆえに答えが必ず1つに定まるのですから。

けれども、実際には、そうではありません。

「国語の問題の答えの内容は、本文に書かれている。しかし、その表現は本文に書かれている言葉だけではなく、言い換えが必要とされたり、許容されたりする。」

これが正確な認識です。

国語の問題が問うのは本文の内容理解ですから、答えの内容が本文に書かれているのは当たり前です。

しかし、答えを構成する上で、必ずしも本文の言葉(表現)が説明に最適かというと、そうではありません。

補足すべき部分があったり、別表現に言い換えなければ制限字数内で説明できなかったり、と。

様々な事情から、本文の表現を言い換えなくてはいけない場面が出てきます。(むしろ、そうした場面の方が多いです。)

その意味では、「国語の答えは人それぞれ違う」という言説も、「国語の答えは1つだが、表現は人それぞれ違う」と言い換えてあげると真になります。

ずさんな国語指導によって、ありもしない「答えの表現」を本文に求めてしまう生徒には、上のように、正しい認識の仕方を伝えてあげるだけでも、ぐっと実力が伸びますよ。