国語ができれば人の気持ちが分かる?

広島国語屋本舗 現古館・館長の小林です。

3年ほど前でしょうか。

教育評論家の尾木直樹氏が、「国語が苦手だといじめっ子になりやすい」と発言し、物議をかもしたことがありました。

その後、氏は週刊文春において以下のように補足をしています。

ここでの国語力とは「文章を読み、理解したことを自分の言葉で表現する力」のこと。共感力や想像力に近い。この力がいじめっ子は弱い、というのが教員生活四十年のボクの実感ね。

週刊文春 2018年3月22日号より

「国語力」などという力が存在するかどうかについての議論はここでは置いておくとして、赤字の部分の氏の認識と私の考えはそれほど大きくずれてはいません。

文章に書かれた内容が「理解されるために書かれたもの」であるならば、私たちには理解ができるはずです。(意図された対象には、ですが)

そして、理解できたものを「理解できましたよ」と伝えることができなければ、「理解できた」ことを誰にも納得してもらえませんから、「表現する力」が必要なことも確かだと思います。

また、「いじめっ子」が「共感力や想像力」に乏しいという考えや、上の発言に続いて書かれている「誰もが加害者になりうる」という話にも、私は同意します。

けれども、「文章を読み、理解したことを自分の言葉で表現する」という技術は、決して「共感力や想像力」などという道徳じみた力と結びつくものではありません。

共感と想像

これは、「共感力や想像力」が必要ない、なんていう暴論では全くありません。

私はむしろ、「共感力や想像力」を重く見ていますし、大学時代、二人の恩師からそれを叩き込まれた実感があります。

たとえば、以下の教えが特に印象に残っています。

裁判官が5人おるとしようや。男女比なんぼや?

小林「男3:女2でしょうか。」

なんで偶数で男女同数やないんかってことに疑問もたんかったんや?

私は二人の師匠から学んだ教えを本当に大事にしていますが、それと「国語力」なるものはまるで関係がありません。

共感とは、他者の考えに同意することであり、

想像とは、知覚されていない物事を心の中に思い浮かべることだからです。

国語の問題は、作者の考えに同意を示すことを求めませんし、「知覚されていない物事」について答えた解答はすべからく0点となります。

「共感力や想像力に”近い”」という表現を尾木氏は使っておられますが、私はそうは思いません。

まず、文章に書かれた内容を理解する段階が第一段階。

理解した内容を伝えるための表現力を身につけるのが第二段階。

そこに達して初めて、ひとりひとりの良識に従って「共感」するか「想像」するかを選択していくのだと考えています。

少なくとも、「国語力」と「共感力や想像力」は同一視できないですし、

国語という科目が得意であるか否か、国語の試験で高得点がとれるか否かは、「共感力や想像力」の有無と全く関係がありません。

国語の問題において、「文章内容の理解」は「作者の考えの理解」ではない

面白い記事を読みました。

国語の読解問題、作者自身が解いたら満点取れるのか!?という記事です。

作家・長嶋有氏に実際の入試問題を解かせる、という企画。

結論から言うと、長嶋氏は「満点」を取ることができませんでした。

この原因がシンプルに表れている表現を引用します。

ここだけ読んでも人間関係がよく分からないですしね。抜粋するなら補足が欲しいなぁ。

(中略)

ええーっ、そういう嫉妬心じゃないんだけどなぁ。そんなジェラシーを抱くほど成熟していないんですよ、慎は。

上記の長嶋氏の言に、私は納得できます。

国語の問題に扱われる文章の多くは、本来あった文章の一部を抜粋したものであり、そこだけを読んで作者の意図を十分に汲むことは困難です。

「慎」という主人公についての作者の考えも、本文全体を読めばその通りなのかもしれません。

けれども、全ての国語の問題には2つの前提があります。

①以下の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 という要求がなされている

②「あとの問い」には、解答が一つに定まるための誘導がなされている(表現の多様さは認められる)

①について。

「以下の文章」とは、作品全体のことを示すのではなく、文字通り「問題文として与えられている文章」を指しています。

そこに与えられた情報だけを考慮して問題を解くわけですから、作者の繊細な技巧や意図は問われませんし、問えません。

それが、作者が魂を削って生み出した作品への誠意ある向き合い方かどうかは、ここでは置いておきます。

②について。

問題が問題として機能するためには、少なくとも解答が明確に示せなくてはなりません。

そのため、私たち作問者は、解答が一つに定まるための様々な誘導を問いに仕込みます。

「答え」が「問い」に対するものである以上、その「問い」の要求に沿って「答え」を作らなくてはいけませんし、「問い」の要求に従えば「答え」は一つに定まるように作ってあるんですね。

ですから、国語の問題を解くという行為は、

与えられた情報を適切に理解し、

問いの要求に従って、理解した内容を表現する

ということなのです。

このように定義していただくと、「国語力」などといった杳として知れない代物がいったい何物であるかが分かってきませんか?

「みんな!エスパーだよ!」じゃないよ!

私たちには、人の気持ちを理解しようとすることしかできません。

人の気持ちを理解できるのはエスパーだけです。

「みんな!エスパーだよ!」という映画をタイトルだけ知っていますが、私に言わせれば「みんな!エスパーだよ!」じゃないよ!です。

仮に、人の気持ちを理解できたとしても、それに共感するかどうかは自分の価値判断の問題ですよね。

理解できるからこそ相いれない、なんてことは日常に溢れていると思います。

共感はできようが、できまいがどうでもいい。

ただ、他者の言葉に一度は耳を傾け、語られる情報から、相手の伝えようとしている内容は理解できてほしいとは思います。

少なくとも、大学という学問の世界へ進もうと考えている人には必要なことです。

私はそのための技術を伝えているにすぎません。

それを利用して、以前よりほんの少し優しい人に生徒がなってくれるなら、私にとってこれより嬉しいことはありません。

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