現代文における「読み」とは?

広島国語屋本舗 現古館・館長の小林です。

高校生向けに書いた文章を共有してみたいと思います。

現代文において、そもそも「読む」とはどういうことか、理解していただきたいと思います。


「次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。」

僕たちが国語の問題に取り組む際、必ず読まされる文章がこれ。

言われなくたって問いには答えます。

答えないと試験をクリアできないわけですから。

では、「文章を読んで」って言われて、君たちは何をするのでしょうか。

国語の問題を解くにあたって、「読む」って、どうすること?

どうなること?

例えば、「文章の意味が理解できること」。

こんな風に表現する人がいるかもしれません。

勿論、それは大切な要素の一つでしょう。

理解していなければ、解けない。

けれど、僕たちが日常操っている言語レベルを遥かに超えた難解な文章を、一文・一文読み進めながら、常に同時に理解できている。

そんなことが可能だ、と思いますか?

できる、と答えた人。

次の一文はどうでしょう。

『グローバリゼーションの究極的な帰結とは生のあらゆるアスペクトにおける市場原理の浸透であり、それはかつてハイデガーやサルトルが提唱した実存という在り方の否定に他ならない。』

多くの人が「?」だったんじゃないでしょうか。

生のあらゆるアスペクトって何?

市場原理の浸透ってどういうこと?

実存って食べられたっけ?

そりゃあ、語彙力は大事。

現代文の頻出テーマについて、そもそもの背景知識を有していることが「読み」を助けるということだという主張には議論の余地がない。

知ってれば、分かることが多い。

当然です。

しかしながら、知らない場合。

一文でも理解ができない文があった場合。

問答無用で「読めない」というレッテルが貼られてしまうのでしょうか?

そんなことはないし、そんなことがあったら、困りますよね・・・。

さぁ、「文章の意味が理解できること」が「読む」ということと必ずしも必要十分に一致するわけではないことが分かりました。

もう一度聞きます。

「読む」って、どういうこと?

どうなること?

先述の一文に、一文足してみましょう。

『グローバリゼーションの究極的な帰結とは生のあらゆるアスペクトにおける市場原理の浸透であり、それはかつてハイデガーやサルトルが提唱した実存という在り方の否定に他ならない。つまり、グローバリゼーションは人間を商品化するのだ。』

なんとなくイメージ、できたでしょうか。

最初の一文を読んだとき、僕たちの頭の中は「?」だ。

けれども、二文目を読んだとき。

1、グローバリゼーションは、市場原理の浸透により、人間を商品化する。

2、「実存」という考え方は、人間を商品化しない。

3、だから、グローバリゼーションは「実存」という考え方を否定していると言える。

この3点は少なくとも理解できたでしょう。

「?」は「!」になる。

分からない箇所は、説明される。(ただし、君の現在の学力で理解できるレベルでの説明かは分からない)

評論は、何かを説明するために書かれるのだから当たり前です。

何が言いたいかわかってきましたか?

つまり、「読む」とは、「意味を理解できること」ではなく、「最終的に意味を理解できること」なのです。

理解できない文は出てくる。

必ず。

けれども、それが説明されることを信じて文章を読み進め、分からない部分が解消され。

そうしたことを繰り返しながら、主題の理解へと至る。

完璧に理解できることなんか少ない。

ただ、問いが解ける水準までは「最終的に」理解する。

この前提を頭の中に持っているかどうか、それが重要なんです。

「最終的に、解ける程度に、理解する」

そのためには、分からない文にぶつかっても、まずは「後ろを読む」。

完璧主義は、少なくとも「国語の入試」おいては、最も完璧な障壁ですよ。

ポイント:理解に至るまでの距離感覚を持つ